2008年4月27日日曜日

食糧価格高騰は低所得層に非常に大きな影響を与えている

世界中で食料の価格が高騰している。ニュースや新聞ではいろいろ騒がれているが、実際の影響を肌で感じるため、NYへ出発する当日、オフィスのドライバー、ヘンリー・トュレイ氏に話を聞いてみた。

ヘンリーは、6人家族。4人の子供と奥さんと暮らしている。彼の月給は230米ドルで、残業手当を入れると300ドル。一人一日平均1.6ドルで暮らしていることになる。2007年の大統領選前の彼の家計はこうなっていた。



お米とそれ以外の食糧(パーム油、野菜、魚、塩、砂糖、調味料)で140ドル(47%)を支出。4人の子供を学校に送る授業料で、月33ドル(11%)。家賃が30ドル(10%)。年に一回だけ買う洋服の月平均コストは9ドル。料理に使う炭が8ドル。石鹸・洗濯石鹸・歯磨き粉が7ドル。公共の水が1.5ドル。選挙前は、彼だけの収入で月71ドル貯金することができた。ちょうど、残業手当全部が貯金に回ることになる。

さて、選挙後、2つの大きな変化が起こった。一つめは、食糧物価の高騰。もうひとつは、新政権が町に電気を通したこと。このため、ヘンリー家の収入と月間支出内訳が変わった。収入面では、ヘンリーの奥さんが公共の電気をつかって飲み物を冷やし、冷たい飲み物を売り始め、月80ドルの収入が増えたこと。一方、電気が通ったことから電気代という新しい支出が出来た。

一方物価の高騰は非常に大きな打撃を与えている。食費合計が140ドルから230ドルに、約2倍にまで跳ね上がった。そのため食費の月間支出に対する割合が61%にもなった。奥さんのビジネスがなければ、77%にも上るはずだった。その他の日常品の価格は変わっていないが、現在はこのような内訳になっている。奥さんからの80ドルの追加収入にもかかわらず、貯金額が半分近くに減った。


ヘンリーの一家はオフィスのすぐ近くに住んでいるため、出勤するための交通費はかかっていない。もし、家が遠かったらヘンリー一家の家計は破たんしていたはずだ。石油価格高騰のため、相乗りタクシーと「小型バス」(小さいバスにぎゅうぎゅう詰め)の価格も高騰しており、多くのドライバーは、実際フリータウンの中心から離れた所にすんでおり、交通費だけで1月約40ドルも支出している。これはヘンリーの今の貯金分にあたる。1日1ドル以下で暮らす貧困層が国民全体の57%ということを考えると、この物価高騰が人々に与えている影響は計り知れない。

コロンビア大教授のジェフリー・サックス氏が、米タイム誌にこの問題について投稿していた。彼は、今の食糧価格高騰に対して以下の対策をとりべきだと言っている。

  1. 貧困層の農民に対して、生産性の高い穀物と肥料を効果的に支給し
  2. バイオ燃料に対する政府補助を停止し
  3. 干ばつなどに対する対抗策を講じる

エコノミストの友人のブログでもこの問題について書いているのでご参考までに。皆さんならどういう対策を提案しますか?

2008年4月26日土曜日

ニューヨーク・ニューヨーク

ブリュッセルを経由して、今日正午ちょうどにニューヨークに着いた。本部の管理局の手伝いをするための1週間の出張だ。今回の出張の間、UNDP本部でシエラレオネの平和構築基金の管理をしている友人のところに泊まらせてもらうことになった。彼がシエラレオネに出張に来る際は、いつも私の家に泊まってもらっている。

飛行機で比較的良く寝れたので、到着後すぐにシャワーを浴びてイーストビレッジまでランチを食べに行った。私生活やキャリアのことについてとりとめもない会話をした後、天気がいいのでユニオンスクエアのあたりを散歩した。

その後、エンパイアステートビルの近くのビルの屋上のバーでビールを一杯。今から彼の大学時代の友人の誕生日パーティーに行くことになっている。初日からとばしていて大丈夫だろうか、、、。なるべく早く帰ってこよう。

2008年4月23日水曜日

通勤時間

日本では通勤に1.5時間かけることは珍しくないだろう。私が日本で働いていた時は、幸いドア・トゥー・ドアで45分位だったが、それでも途上国での通勤時間に比べればかなり長い。

東ティモールにいたときは、オフィスが家の隣のブロックにあったため、徒歩5分。インドネシアでは、タクシーで15分。100円もかからない。シエラレオネでは、丘の上に住んでいるため少し「遠い」が、それでも車で20分もかからない。

もちろん通勤時間中に読書などいろいろ出来るが短いに越したことはないと思っている。

こんな考えでは、もう日本で働けないのだろうか、、、。

2008年4月22日火曜日

運動不足解消

小さい頃からずっとスポーツをしてきた私としては、いつも運動をしていないと気分が良くない。社会人になってからも、ジムに行ったり、プールで泳いだりと何らかの運動をして体調を整えてきた。

東ティモールにいたときは、家が海岸のすぐ近くだったこともあり、よく海岸沿いを走ったり、週末には、キリスト像のある丘まで走ったりしていた。インドネシアでは少し贅沢に、アパートの屋上にあるプールで泳いだり、出勤前にジムで汗を流した。

さて、シエラレオネに来てからは、当初滞在していたホテルが海岸沿いにあったこともあり、仕事の後に海岸を走っていたが、丘の上の家に移ってからは、色々試行錯誤している。まず、家の近くのカントリーロッジというホテルのジム。日本風に言うと20畳位しかない一室で、トレッドミルや基本的な器具が置いてあるところ。しばらく行っていたがどうも好きになれない。しかも設備の割に、月40ドルもしくは一回10ドル(高いんちゃうの?)とられる。

一度、IMATTという国際軍隊チームが毎週土曜に企画しているウォーキングに参加してみたが、4時間ほど雨の中山道を歩くことになり、あまり快適感は味わえず。

という訳で、最近は新たなトレーニング(?)を試している。今住んでいる家の敷地がまあまあ広いため、その中を走り回っている(すいません、それだけです)。ただだらだらと走ってもしょうがないので、心拍数を上げるために階段の上り下りも組み合わせてみる。過去数週間試しているが、まあ悪くない。いつでもできるし、お金もかからない。セキュリティーガードには、「何をやってるんだ」という目で見られるが、そんなことに負けている訳にはいかない。

この次は、何をためそうか。

2008年4月20日日曜日

ギターを弾こう

シエラレオネに持ってきたが、ほとんど手をつけていなかったギターを弾いてみた。最後に弾いてもうどのくらいだろうか。

そもそもギターを始めたのはもう20年ほど前にもなる。当初はエレキ・ギターばかり弾いていたが、10年ほど前にボサノバにはまった。単音弾きとジャカジャカしたエレキのコードから、指を大きく広げなければいけないボサノバコードに移行した。同じ6弦ギターとは言ってもR&Bとはコード構成が全く違い、最初はかなりてこずった。

ボサノバを始めた当初は持っていたエレキを使っていたが、やはりボサノバのやわらかい音を出すためにはナイロン弦のクラシックギターではなければと思い、8年ほど前にスペイン製のクエンカというモデルを購入した。クラシックギターについてほとんど知識がなかったため、よく見かけるヤマハのものでも買おうかと思ってギターショップに行ったが、強くこのモデルを勧められた。

久し振りに弾いてみると、やはり手がうまく動かない。基本的なコードも忘れている。覚えていると思っていた曲も弾けない。本棚の奥からTab譜を引っ張り出して、基本的コードから復習する。指先が痛い。

以前は簡易ボサノババンドも結成して、ホームパーティーで下手な演奏もしていたが、この分ではまた人様の前で弾けるまでには時間がかかりそうだ。ちなみに、シエラレオネの音楽にはまだあまり馴染めない、、、。

2008年4月19日土曜日

‘開発援助病'

世界の貧困問題を解決するという使命感に燃えて開発援助の世界に入った人は多いだろう。私もその一人だ。電気や水の通っていない家で、ゴキブリ、ネズミや蚊と格闘する生活をしながらも、クライアントである政府の人たちに仕事を感謝され、国の発展に対するインパクトが少しでも出ると、「ああ、この仕事をしていてよかったなあ」と思える。

しかし、実際の開発援助の世界はそれ程単純ではない。公共のためとはいえ、どこの世界とも同じで、様々な個人的利害が絡まることが多い。例えば現在、新しい議会を援助をするために各ドナーが競って国会議員に対するトレーニングを行っているが、この国会議員が、トレーニングに参加するためのインセンティブをよこせと言っている。つまり、トレーニングに「行ってあげる」から、その褒美としてお金をくれということだ。ドナー側としては、国会議長からのリクエストに応じて、国会議員が自分の仕事がきちんとできるようにODAを使ってトレーニングを行っているにもかかわらず、それに対して、あたかも頼まれてやってあげているというような姿勢で、お金をくれと言うのだ。これはどうもおかしい。この事例は先日のドナー会合でも問題となり、ドナーとしての立場をはっきりさせようということになっている。

こういった、開発援助の仕組みに慣れ切って、そこからできる限り個人的利益を享受しようという行動を、'開発援助病'と呼べるだろう。治療薬はあるのだろうか。

2008年4月17日木曜日

リーダーシップの強化か現場の強化か?

過去4か月程、設計に関わっていたUNDPのプロジェクトの承認の可否を問う会議が行われた。

このプロジェクトは、行政改革と効率的な行政サービスを担保するには、国家のトップがリードする力がなければ実行できないという考えに基づき、大統領周りに有能なアドバイザーを配置し、大統領の政策決定能力と実行力を高めることを目的にしている。このアイデアを考案した大統領のアドバイザー達は、'過去の過ち'を繰り返すべきではないと強調し、プロジェクトの正当性を訴えた。

一方、ドナーや省庁の代表者達からは、'トップだけを強化しても、実際に仕事をする省庁が強化されなければ意味がない'という意見も出された。それに対して、もちろん現場で汗を流す人員を強化することは必要だが、それは、トップのリーダーシップあってのことではないか-言い換えれば、省庁だけを強化しても、トップがしっかりしなければ、矛盾した統一性のない政策が実行されるだけではないか、といった反論も出て、なかなか充実した議論が行われた。

結果的に、このプロジェクトは正式に承認され、実行フェーズに移った。大事なのはこれからだ。

2008年4月13日日曜日

国会議長と会う

2007年の大統領・議会選挙の結果、国会議員の構成が大きく変わった。初めて国会議員を経験する議員の割合が全議員の80%にも上り、議員自身達が議員として基本的な役割(代表・立法・オーバーサイト)をまだしっかり理解できていないと言われている。

また、議会サービス法が2007年4月に採決され、議会が独立に議員や議会職員の予算や人事制度を決めるための基盤が法的に整備された一方、未だ実行が伴っていない。この法律の実行は、議会の独立性を担保するためにも非常に重要だ。

これを何とかしてほしいと、先週国会議長と野党第一党の党首から電話がかかってきた。そのため、先日ボスとともに国会まで行ってきた。1時間弱の会合だったが、議会が行うべき役割を果たすことがいかに大変かがよく理解できた。一方、すべてを解決するのは大規模な投資が必要なため、とりあえず直近のひとつのアウトプットを支援することに合意した。

シエラレオネは紛争後間もなく、政権が交代したばかりという国の状況もあるだろうが、こういった支援の要請は後を絶たない。頼りにしてもらうのは光栄なことだが、すべてをYes Yesと言って受けているとオフィスのキャパシティーを越えて、他のプロジェクト運営にも支障が出てくる。国連機関でも「集中と選択」が必要だ。

2008年4月12日土曜日

アフリカで散髪

海外で生活をするようになって10年程になるが、いつも困るのが散髪。日本のヘアドレッサーは当然のことながら日本人の髪質に慣れており、しかも丁寧。ジュネーブなどの比較的大きな都市では日本人が経営するヘアサロンもあったりするが、アフリカとなるとそんなものもない。

シエラレオネに来て以来、なるべく出張や休暇で他の国に出たときに髪を切るようにしているが(前回はモロッコで切りました)、いつもそういう訳にはいかない。そこで、ローカルのヘアドレッサーに頼るわけだが、男性向けとなると、道端で地元の人用に、バリカンひとつで経営しているところがほとんど。ヨーロッパ人の髪を切ったことがあるなら、日本人の髪もなんとかなるのではないかという単純な考えで、リスク軽減のため外国人向けのヘアドレッサーを探すことになる。

到着当初1ヶ月ほど住んでいた「Cape Sierra」にはそういった外国人向けのヘアサロンがある。以前ドイツに住んでいたことがあるというシエラレオネ人の女性が経営しているところだ。カット3万レオン(10米ドル)と値段も外国人向けだが、髪を短くするくらいならちゃんとやってくれるので、今まではここの常連であった。

しかし、いくつか難点がある。まずは距離。ヒル・ステーションからCape Sierraまで車で30分ほどかかり、しかも町中の喧噪を抜けていかなければならない。リラックスしたい週末にはあまり楽しい旅ではない。さらに、予約制度がしっかりとしていないため、そこで長い時間待たされたり、今日は一杯だから明日来いとか言われることがあった。

こういった中、友人のつてで、ヒルステーションにカメルーン人のヘア・ドレッサーがいることが判明した。彼女は、EUで働くスペイン人の夫と2人の子供と住んでおり、家の中の一室をヘアサロンとして使っているという。EUの職員など外国人が主な顧客で、家からは5分もかからない場所にある。髪がだいぶ伸びていたので、早速今日行ってきた。

結論を言えば、まあ悪くない。値段も3万レオンとCape Sierraと同じ。フランス語の練習も出来るというおまけつき。しばらくシエラレオネでの散髪を心配することはないだろう、、。

2008年4月9日水曜日

現場での「国連改革」

近年の国連改革、Simplification & Harmonisationの波で国連機関内の調整がますます重要になっている。 現在シエラレオネでは、国連を代表する駐在調整官を補佐するポジションが空席のため、今日IOM,UNHCR,UNDP,UNICEF,WFPからの担当官が参加し、この調整官補佐人をインタビューすることになった。この補佐官は、国連の活動全体の調整を補佐するという非常に難しい役割を担うことになる。

インタビューを行うなかでまず感じたのは、国連機関内の文化と規制の違い。各機関では、それぞれの機関のルールに基づいてスタッフの採用を行うが、それが必ずしも統一されている訳ではない。ある機関では、ある面接のもっていきかたをするが、他の機関では異なった面接の仕方を行う。そのため、そもそも、どのように面接を行うかを話し合うだけで30分程の時間を費やした。また、各機関、それぞれの活動する分野が異なるため、どうしてもその分野についての知識を問いたくなる。さらに、意志決定をする際も、国連機関の「代表」が集まっても、誰がボスかはっきりせず、最終決定をするのがむずかしい。

最終的には皆で一人の候補者を選ぶことに合意したが、現場での国連改革というのはこういうことを効率的にこなしていくことなのだろうと感じた一日だった。まだまだ先が長い。

2008年4月6日日曜日

Little Japan in Freetown

昨日はJICAシエラレオネの新しい代表Kさんを囲んだ会食があった。フリータウンに在住の日本人9人とそのパートナーが集合した。日本人9人の内訳は、国際NGOのケアから1人、JICAから3人、UNDPから5人(そう、JICAよりも多い!)。

「吉林」というビーチ沿いのレストランに6時に集合。吉林省は朝鮮半島沿いに位置するだけあって、韓国料理のようなものが出てきた。なかなかいける。キムチもあった。最初はビールを飲んでいたが、そのうち皆、韓国焼酎に切り替えた。焼酎の効果もあり、9時頃からカラオケが始まった。


楽しい時間を過ごさせてもらった。西アフリカの一国でこのような時間の過ごしかたが出来るとは思わなかった。今日は少し二日酔い気味だが、、、。

2008年4月4日金曜日

日本人名を持つシエラレオネ人

以前紹介したお手伝いさんの「ペムダ」はあまり仕事ができなかったので、実は数か月で辞めてもらった。その直後から知り合いの紹介で「ラマトゥ」というお手伝いさんに代わりに来てもらっている。よく気が利く働き者だ。

「ラマトゥ」が仕事を始めた時に彼女はすでに妊娠しており、その後去年の10月に4人目の子供を産んだ。男の子だ。さて、彼女はこの男の子になんという名前をつけたでしょうか。

答えは「トシヒロ」。そう、何と私の名前をつけたのだ。聞いた時にはびっくりしたが、親しみを持ってくれているということなのだろうか。苗字は「マセライ」なので、このシエラレオネ人の赤ちゃんのフルネームは、「トシヒロ・マセライ」。出生証明にもそう書いてあるのをこの目で見た。純シエラレオネ人で日本人の名前を持つのは、彼だけではないだろうか。。。

そして、この「ラマトゥ」は家に来る時、たまにこの「トシ」を連れてくる。「Toshi is here today」とか言うので、最初は何を言っているのかわからなかったが、、、。彼の話をする時にも、当然だが「トシ、トシ」というので、変な感じがする。

名前が自分と同じだと、面白いことに親近感まで湧いてくる。彼が病気になった時などには、「うーん、それはすぐに病院につれていかねば」と言い、病院代をラマトゥに渡すことになる。デジカメで写真も撮ってカラープリントをしてあげたりもする。ついには、うちの母親までが「このトシヒロはかしこそう」とかいう始末で、手に負えない。

Yes! - 50 secrets from the science of persuasionというしばらく前に読んだ本では、名前の近い人に親近感を感じることを科学的に証明するデータが引用されている。あるアンケートを郵送で一般家庭に送るのだが、普通なら回答率が30%と低いのに対し、宛名と差出人の名前を近くすると(たとえば、Robert Greerさんに対して、 Bob Gregarを差出人とする)、回答率が56%にも上がったという。名前というのは面白い。

2008年4月3日木曜日

インターンシップ

国連でインターンをしたいという大学院生は多い。シエラレオネ事務所でも様々な方々から連絡をいただく。去年だけでも、フランス、アメリカ、イギリスから4-5人ほど受け入れた。現在も、サマーヴァケーションでもないにも関わらず、現在もドイツ人とカメルーン人のインターンがいる。

インターン期間にいい仕事をするとやはり次回は、有給で手伝ってもらおうかということにもなる。去年オックスフォード博士課程から来てくれたアメリカ人のインターンは、かなり仕事が出来、しかも「Mature」であった。インターンシップの最後にランチをした際、「これから学校に戻るが、何かできることがあれば、学業の間にボランティアとして手伝いたい」と言ってくれたので、お言葉に甘えて一つリサーチをしてもらった。その出来もよく、このリサーチが元になって今年から新しいプロジェクトを始めた。平和構築分野の仕事に興味を持っている方々はこういった機会を是非活用していたら良いと思う。

2008年4月2日水曜日

ドナー会議

今日、国連と世銀の共同チェアーのもと、主要ドナーの非公式会議が行われた。議題は、次期PRS(Poverty Reduction Strategy)の進捗状況の確認と各ドナーの近況報告。欧州連合、イギリス、ドイツ、イタリア、日本、アイルランド、アフリカ開発銀行、ユニセフ、UNDP、UNIOSILの代表が参加した。UNDPの大ボスが出張でいないため、私が出席することになった。

PRSは、2005-2007年のものが去年で失効したにも関わらず、新しい2008-2010年度のものがまだ完成していない。政権交代の影響で、プロセスが遅れている。世銀やイギリスなどの開発援助はこれがなければ行いにくいようで、現状のPRS作成の遅れに少ししびれを切らしている模様。お互いのドナーの情報を持ち寄って、現在どこまで本当に進んでいて、どのような支援が必要かを話した。

感じたのは、我々UNDPのシエラレオネ政府リーダーシップとの「近さ」。よく「近すぎる」とも批判はされるが、その政府との緊密な関係で、最大手ドナー達があまり知らない情報を持っているようだ。我々が内部で当たり前として話しているようなことが、他のドナーにあまり知られていないようだ。もちろん一方で、我々の知らない情報も多くあるが。。。

ドナーの近況報告の部分では、各ドナーが様々な開発プロジェクト人員に対して払っている異なった給料水準が問題になった。この部分ではドナー間の調整があまり進んでいないため、かなりいびつは給料体系が出来上がっているのだ。たとえば、あるドナーがシエラレオネ人のプロジェクト・マネージャーに月2000ドル払っているそのとなりで、他のドナーが同じようなポジションに対して、月3000ドル払っていたりする。この問題は以前からかなりされていたが、未だに解決されていない。関係機関で集まって、別途話し合おうということにおさまった。次の会議は1ヶ月後、ユニセフがホストとなることになった。

ところで、今日の会議の雰囲気はかなりリラックスしたものだったが、皆真剣(まあ当然だが、、)。パリ宣言の達成は、こういった地道な活動が不可欠なのだろう。

2008年4月1日火曜日

Performance Contract

以前も書いたかと思うが、シエラレオネ新政府のトップは、改革の意欲が大きい。

先日、大統領と大臣の間で、「今後3年で、各大臣がこのような結果を出す」ということを合意するパフォーマンス・コントラクトが結ばれた。この目標に対する進捗状況は四半期ごとに、大統領の戦略・政策ユニットによってチェックされることになっている。今まで、大臣の出すべき結果とその結果に対する説明責任があまりはっきりしていなかったことを考えると、大きな前進だと言える。地元のメディアでも取り上げられている。このプロセスは、準備段階から含めても5-6ヶ月ほどかかった。

実行されなければ意味がないが、ここまでよく持ってきたものだと感心するとともに、リーダーシップの重要さを再確認する。